2.廃止内定路線の哀愁

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 灰皿と絵はがき

  広島から(厳密に言えば1駅先の横川から)、今回の旅のメインとなる「可部線」に入ってゆくことになる。が、その前に、広島駅新幹線コンコースで、こちらも鉄道の日イベントが催されているとのことなので、立ち寄っておきたい。

  人だかりのできていた一角は、鉄道部品の即売会会場。サボ(行き先表示板)や方向幕などの定番商品、さらには0系新幹線の「鼻」とおぼしき円い物体(ン万円)などが展示されていたが、すでにめぼしいものはあらかた売れてしまっていたようで、人だかりは運転士用の時刻表に集中していた。

  私もせっかくだから何か、と考えたものの、時刻表には興味がなく、かといってあまり大きなものを買っても余計な荷物になるし、持ち帰っても置き場がない。「安くて小さくて実用的なものを」という、いたって現実的な思考が働いて、結局購入したのが、灰皿と絵葉書。

  灰皿は、懐かしき「JNR」(国鉄)マーク入りのもの。「禁煙車」などという概念がなかった時代の遺物で、JR初期のころまで、ボックス席に1つずつ必ず備わっていたが、車内禁煙が一般化したことから、めっきり姿を見なくなってしまった。タバコを吸わない自分が、こんなものを買うのも妙な気分だったが、200円と安かったこともあり、かつての列車旅を偲ぶアクセサリーとして入手。持ち帰って中を洗浄し、ペン立てとして使用している。

  絵葉書は5枚50円と、こちらも安価。新幹線の「広島総合運転所」が出しているもので、レールスターや500系のぞみのほか、グレーになった0系や、4両になった100系など、資料的にも価値のあるもの。250円の支出で我ながら満足して、コンコースを立ち去ったのだった。

 超鈍足 可部線の旅

  広島 13:45 → 加計 15:32 [普通 1239D/気・キハ40系]

  乗り込んだ列車は、加計(かけ)行きの気動車。可部線は横川から途中可部までは電化されており、この区間はほとんど電車で運転されているが、1日1往復だけ気動車が入る。この列車が、その貴重な1本なのだ。ディーゼルらしく緩慢なペースで広島を出た列車は、次の横川から山陽本線と分岐して、可部線に入ってゆく。ちなみに、この広島の「横川」は、「峠の釜めし」で有名な群馬の横川(よこかわ)と異なり、「よこがわ」と読む。

  ではここで可部線についてご紹介。横川から太田川に沿って、広島北西部へ入ってゆき、終点三段峡へ至る60.2kmの路線。途中可部までは明治44年までに開通。当時はナローゲージ(軌間762mm、通常の線路より狭い)だったらしい。昭和3年に電化、昭和11年国有化。その先は順次工事が進み、昭和44年に三段峡まで開通。さらに島根県の浜田までつなぐ計画もあったものの、結局日の目を見ることはなかった。

  広島市街地の建て込んだ間を縫う様に北上。しかし、そのスピードの遅いこと遅いこと。駅間は狭く(0.8〜1.6km)、その間ほとんど加速することなく、ゆるゆると進んでゆく。ナローゲージ時代とそう変わっていないんじゃないか、というくらいののろのろペース。実際、横川から可部までの14kmを32分、平均すると実に時速26kmという超低速。

  で、ようやく可部に到着。11分の停車時間に改札を出てたものの、駅前にめぼしいものはなく、駅のキヨスクも昼休み?中。

  この可部から先、可部線は非電化区間となるが、ここからの区間こそが、今回の旅行のハイライトとなるのである。

  JR西日本は、可部線の非電化区間、すなわち可部〜三段峡間を廃止する方針を固め、沿線自治体に打診。自治体の反対を受けて、試験的な増便が実施されたが、JRが存続の基準として提示した利用者数には遠く及ばず、廃止の趨勢は決定的になってしまった。

  この旅行の時点では、まだ正式な決定にこそ至っていなかったものの、第三セクター化にも悲観的な見通しが立ち、もはや廃止は内定事項となっていた。廃止は2003年の夏か秋とされ、それまでに一度は、ということで、今回の訪問とあいなったのである。春の165系、夏のクモハ42に続き、最近はこうした「惜別乗車」が多くなった。(この後、11月に国土交通省に正式に申請され、廃止日は03年11月30日に決定。)

  可部を出ると、これまでの広島近郊の様相から一転、谷あいの山村風景に。谷幅の大部分を太田川が占め、清流釣りをする人の姿も。線路はその脇を細々とゆく。この急変ぶりを見れば、可部が電化と非電化の、また存続と廃止の境界となった理由がよく分かる。

谷あいの小駅を拾ってゆくが、乗降はほとんどない 

  列車は、集落をつなぐように進み、人けのない駅々に停まっては、だれも乗降のないまま出発、その繰り返し。そんな谷あいに突如、場違いな橋脚がそびえ、高速道の橋げたが威圧的な様で頭上を越えてゆく。鉄道旅行をしていると、いやというほど見せ付けられる光景だが、ここにあってはなおさら愕然とさせられる。

このような渓谷風景が延々と続く 

  水内(みのち)は、どこぞの温泉地の玄関らしく、もとは大きかったと察せられる駅。しかしここも今はその機能を失い、寂れた無人の駅舎が残るのみ。大きな買い物袋を担いだおばさんたちが下車していったのに、かろうじて救いを感じた。

水内駅。無人駅に「乗ってよ! かべせん」の横断幕 

  可部線気動車の配色をあしらった、黄色と白のマスコット。上の写真のような、可部線存続キャンペーンの垂れ幕や看板を、沿線のあちこちに見ることができた。国鉄末期の路線一斉廃止の時期には、一応は代替バス路線がしっかり設定されたものだが、過疎地を取り巻く状況がいっそう厳しくなった今、代替機関の引き受け手を探すことさえ難航しており、そのことが、沿線自治体の不安を余計に増幅させているという。

  15時を過ぎ、日差しが西に傾いてきた。列車はさらに、同じような景色の中を進み続ける。時折、今にも止まりそうなスピードで徐行するところも。廃止する気満々のJRが、いまさら線路を改良するわけがないか…。と分かってはいても、なんだか寂しさを感じる。一方、津浪(つなみ)駅では、近所のおばさんたちか、ホームで花の手入れをしている姿に、ほっとする。

  谷が開け、列車は終点加計へ。可部から加計までの32kmには59分を要した。すなわち平均時速は約32kmだ。

 最果てへ

  久々に「街」という感じの加計。駅前には商店街らしきものも。しかし休日とあってか、ほとんど閉まっていてひっそり。この駅にもやはり「乗って残そう みんなのかべせん」ののぼりが立ち、ホームから望める役場?の建物にも垂れ幕が掲げられていた。

  加計 15:48 → 三段峡 16:17[19] [普通 241D/気・キハ40系]

  列車を乗り換え、可部線の旅はもう少し奥へと続く。今までより谷が広がり、盆地のようになってきた。ここからの区間は昭和44年開通の最も新しい線路で、築堤が高く、踏切もない。末端へ行くほど新しくて良い線路、なのに真っ先に廃止されてしまう。なんとも皮肉な話だ。

  再び両サイドに山が迫り、いよいよ終端かな…と感じだしたあたりで、可部線の旅は唐突に終わりを迎える。三段峡。正面にそびえる山にさえぎられる格好で、行き止まりとなった線路。ホームは片面だけで、列車はそのまま折り返すしかない。

「どんづまり」の三段峡駅。列車はそのまま折り返す 

  その名のとおり、「三段峡」という景勝地への玄関となる駅前。土産物屋などが並び、それなりに活況を呈している。折り返しまでの停車時間は6分。どこかへ行くほどの時間はないので、ともかく土産屋の1つに入り、目に付いた「とちもち」を購入。値段が分からぬまま、2箱を差し出すと、370円と。安い。ささやかながら、可部線沿線の経済に貢献しておく。

  駅前には、かつて可部線で活躍していたものか、SL・C11が保存されていた。その車体に、これまた「JR可部線の存続を願う!」との横断幕。白地に赤字で大きく書かれ、可部線道中最もインパクトの強いものだった。

三段峡駅前にはC11機関車が 

  列車は折り返し、臨時快速「三段峡ハイキング号」となって、広島を目指す。名前の示すとおり、三段峡観光の便宜を図った列車と見え、結構な数の乗客が乗り込んで、座席が埋まった。広島まで直行してくれるのはありがたい。ただ、せっかくなら、せめて急行車両など使って、観光列車らしくしてほしかった…

  三段峡 16:23 → 横川 18:21 [快速「三段峡ハイキング号」 9250D/気・キハ40系]

  三段峡を出た列車は、これまで可部線を辿ってきたのんびりペースからは考えられないようなハイペースで、もと来た道を引き返す。なんだ、やればできるんじゃないか、と思う。可部線が浜田まで通じ、陰陽連絡線として機能していたのなら、あるいは活路が開けたのかもしれない。

  加計を過ぎ、再び渓谷へ。日がかげり、山々にさえぎられて光が当たらなくなってきた。可部線の末路を示すかのような光景の中、快速は淡々と広島を目指してゆく。通過駅の小河内では、ホーム際にコスモス。こうして列車がコスモスを揺らして走るのも、あと1年ほど…。廃止されて列車が来なくなってしまえば、いつか線路もホームもコスモスに埋もれてゆくのだろうか。

  快速運転ですいすいやってきた「ハイキング号」も、安芸飯室からは各駅停車となり、ここから先が長い。特に可部以降のだらだら走行には改めてうんざりし、いつのまにか居眠りしていた。

  横川で、長かった‘最初で最後の’可部線訪問は終結。外はすでに真っ暗になっていた。

  横川 18:23 → 広島 18:28[27] [普通 674M/電・103系]

 色黒新幹線

  広島 18:50 → 岡山 21:28 [快速「山陽シティライナー」 1376M/電・115系]

  広島からは山陽本線をひたすら東に向かう。八本松まで快速の「山陽シティライナー」、往路と同じくリニューアル車両が来るものと思いきや、ノーマルの115系。これで延々岡山まで2時間半以上となると、精神的に厳しい。

  夕方とあって乗客は多く、立ち席。広島市街を出てかなり経って、入野でやっと着席できたが、景色も見えないので漫然と過ごす。倉敷では、チボリ帰りと思しき人々がどかっと乗車してきて、大混雑に。

  岡山から、このまま普通電車を乗り継いでも、加古川に帰り着くことはできるものの、疲れがきだしていたので、相生まで1区間新幹線でワープすることに。投資額は2,050円。最近、旅行終盤でこういうワープをすることが多くなってきたあたり、われながら安直だとは思いつつ、やはり体が…

  岡山 21:51 → 相生 22:10 [新幹線「こだま660号」 2660A/新・0系]

  入ってきた「こだま660号」は、おなじみ0系。でもちょっと様子が違う。白地にブルー帯の伝統のスタイルではなく、グレー基調の配色。帯はダークグレーで、黄緑色のラインが入っている。リニューアル編成がこの色になったと聞いてはいたが、本物を見るのはこれが初めて。悪い色ではないものの、老い先短い0系のイメージを、今あえて変える必要があったのか…

黒っぽく見えるのは、暗さのせいだけではない。リニューアル0系 

  車内は明るく、自由席ながら座席が4列化され、ゆったりめに感じられる。(逆に言えば、西日本「こだま」の利用者の少なさを物語っているわけだが。)床は塗りたてっぽくテカテカ。

  ホーム向かいに、500系のぞみが入線、そして先に出発。かつての名士0系も、今や編成を短くされて、500系や「レールスター」の間を縫って細々と走るのみになってしまったが、時間に余裕があれば、こんなのであえてゆっくりと新大阪から博多を目指すのも、ある意味で優雅な旅といえるかもしれない。

  岡山を出たこだま号は、するするとスピードを上げて、闇の中を疾走。こうして見る限り、新型車両とひけをとるところは感じられない。しかし、トンネルを出入りするときなど、風圧によるひずみが、ミシッ、ミシッとくるあたり、やはり老いはを隠せないようだった。

  相生 22:16 → 姫路 22:35 [普通 1436M/電・113系]
  姫路 22:44 → 加古川 22:58 [普通 840K/電・221系]

  「色黒新幹線」を相生で下車し、鈍行の旅に復帰。といっても残りはもうあとわずか。なぜか前後の先頭車だけが阪和色の113系で姫路へ。そして加古川へ。1日乗り放題切符の効力をめいっぱい有効活用し、2002年の「鉄道の日」はこれで終わりとなる。

 

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