3.鹿児島ドライブ

 

  写真はクリックで拡大表示します。ブラウザーの<戻る>でお戻りください。

 危機一髪

  7月30日 日曜日は出水で過ごし、翌31日は祖母の車を借りて、ドライブへ出かけることにした。

  ※ 最初に断っておくと、この日は一度も列車に乗らない。トラベラーズ ノート史上初、車だけの旅日記である。

  さて、1週間前の7月22日から23日にかけて、鹿児島県北部は集中豪雨に見舞われた。梅雨末期の発達した雨雲が、同じ地域に断続的に流れ込んできたのだ。鹿児島では、スコールのような激しい夕立は珍しくないが、通常は一時的に収まる。ところが今回は、それが長時間居座り、そのうえ、一度収まってからもう一度やってきたのだという。

  急激な増水によって川は一気にあふれ出し、川沿いに位置する市街地が水浸しになってしまった。出水市や、川内(せんだい)川上流に位置する湧水町、さつま町などで起きたこの洪水は、全国ニュースでも報じられる大水害となった。地元の人がインタビューで、「五十年来、なかった災害」と語っていたが、昔台風で家の屋根が飛びそうになる経験をした祖母でさえ、「これが温暖化の影響か」と驚いていたから、よほどの想定外の災害だったのだろう。祖母の家のある場所は高台なので、洪水の被害はなかったが、それでもピーク時には、雨水が庭を川のように流れていたという。

  1週間が経過し、さすがに水は引いたが、川に近い地域ではまだ、住民がトラックを家屋に横付けして、家のものを出し入れしている。そんな市街地から、国道447号を辿って、まずは大口方面を目指す。

  氾濫した米ノ津川の上流へさかのぼってゆく。川岸の木や竹の高いところまで枯れ草やゴミが引っかかり、土手の崩れている部分もある。川そのものは元の穏やかな流れに戻っているだけに、あそこまで水位が達したのかと思うと、信じられない気分になる。

  鹿児島では、というより九州においては、隣の市町へ移動しようとすれば大抵、大なり小なりの山越えが必要となる。20年ほど昔の峠越え道路は、車の離合も困難なつづら折りの道が延々と続き、大事な孫を乗せて運転する祖父母はさぞ気を遣ったろうと思う。この大口への道路も、当時は国道ではなく狭い狭い県道だった。幸い、今は完全に2車線の道路に整備され、走りやすくなっている。心配された通行規制もなく、青空に映える深緑の山々を見ながら気持ちよく峠を越えた。

とはいえ脇道には通行止め区間も 

  大口からは、えびの方面へと向かう2つのルートがある。国道268号と、国道447号だ。268号は整備された道路だが、447号は地図を見るからに旧態依然の山道と予想される。私は447号ルートを選択した。この先には、つい2日前に「いさぶろう」号で訪れた真幸駅がある。

  大口市街を出た447号は、しだいに山奥へ入ってゆくが、予想に反して2車線の整備された道路だ。民家はなくなり、対向車も来ない。なんて分不相応な道路だろうと思いつつ飛ばしていると、その整備された道が突如終わりを迎える。その先、2車線道路を延ばそうという工事が行われており、まだアスファルトの敷かれていない立派なコンクリート橋が谷を跨ぐように架かっている。一方、道路は1車線となり、その谷のへりに沿ってうねうねと続いている。

  国道は一転、うっそうとした森の中を進む心許ない道路となった。まさに昔、出水から大口へ行くのに通ったと同じような道だ。こういうところで車を走らせるのも割と好きなのだが、カーブの先はどうなっているのか、対向車は来ないかと、いろいろ気を回さねばならなくなる。特に初めての道路ゆえ、先が読めないスリルがある。

  カーブを繰り返して坂を登ってゆくうちに、峠の頂上に達した。ここはちょうど、鹿児島県大口市と、宮崎県えびの市との境界となる。

ここが「県境」。人里離れた山林の中 

  ここからは下りの一途となる。下りだからつい勢いがついてしまうが、カーブの先が危険であることに変わりはない。そんなことを思っていた矢先、カーブを曲がったところで、突然現れた対向車。あわててブレーキを踏んでハンドルを切り、間一髪難を逃れた。ワンテンポ対応が遅れていれば、正面衝突していたことだろう。こんな人里離れたところで、もしもの事があったら、と背筋が寒くなった。

  さすがにその後はカーブをおそるおそる通過しながら、とにかく早く山を抜けたいとの一念のもとに車を走らせる。ようやく谷がひらけ、道路拡幅工事中のところまでやってきた。この国道も、大口側、えびの側の両側から整備が進められているようだ。今回は肝を冷やしながら走ったのでなおさら長く感じたが、いざ2車線道路が全通すれば、あっけなく通過してしまうような距離になるのだろう。

 真幸再訪、いさぶろうに再会

  2車線となった道路を少し下ると、見覚えのある風景が現れた。JRの真幸駅は、すぐにそれと分かった。道路から見れば高台に位置し、一昨日の訪問の際には気づかなかったが、道路側に向けて「真幸駅 日本三大車窓と幸せの鐘」と書かれた看板を掲げている。

2日ぶりの真幸駅。今日は外側から 

  一昨日「いさぶろう」で訪ねた3つの駅、大畑・矢岳・そして真幸はすべて無人駅で、今や駅舎を通らなくてもホームに出入りできてしまう構造となっている。私は真幸駅舎の横に車を停め、駅舎を通らず脇から構内に入った。スイッチバックに向かうポイント部分で、4名ほどの作業員が炎天下、保線の工事をしていた。

  駅というものは、外の世界から見れば並ある建造物の1つにすぎないが、列車の利用者にとっては外界に通じる唯一の出入り口であり、旅は必ず駅に始まり駅に終わる。従って、同じ駅という建造物も、内と外のどちら側からアプローチをかけるかによって、その見え方が変わってくる。たとえ列車が滅多に来ず、駅舎が通路の役目しか果たさない無人駅であっても、廃線の駅跡を利用した資料館などとは根本的に異なる。後者は、内側からのアプローチの機会が永遠に失われた存在だからだ。

  遠くから、列車の走る音が聞こえてきた。時刻表によれば、人吉からの「いさぶろう1号」が到着することになっている。坂を下ってきたのは、一昨日に乗ったと同じ、赤茶色のディーゼル2両編成。目の前を通り過ぎて一旦視界から消える。保線の人たちが線路の脇に退き、一人が白旗を掲げて待ちかまえる。まもなく列車は、駅構内に向けて引き返してきた。つい先日、車内で体験した事柄を、こうして傍目に見るとは不思議な気分だ。ざっと見る限り、週末と平日の違いからだと思うが、乗客はずっと少ない。これくらいならより落ち着いて車内で過ごせたろうにと思う半面、観光列車としてはこれでは寂しかろうという気もする。

いさぶろう、スイッチバックのホームに向かってくる 

  人数規模は小さいものの、乗客がホームへ降りて、鐘を鳴らしたり、客室乗務員に写真を撮ってもらったりする光景は一昨日と変わらない。おばさんたちは、今日はホームではなく、駅舎の軒下で物を売っている。犬の姿は見あたらなかった。

  数分の停車の後、乗務員さんがホームの発車ブザーを鳴らす。私はホームの端で、その出発を見送る。列車はゆっくりとホームを離れ、ポイントの上を通過して吉松へと進んでゆく。列車が視界から消えると、駅周辺は何事もなかったかのように元の静寂に返り、保線屋さんたちの作業が再開された。こちらは、ちょっとホームに立つだけでも日差しがこたえるのに、この炎天下の日中に作業を続ける人たちの労力はいかほどか。「お疲れ様です」と声をかけると、「ああこんにちは」と返ってきた。1日10回しか列車の通らない線路だが、こうした人々の労なくしては成り立たない。

  駅を後にして、2車線の立派な、しかし車の滅多に通らない国道447号をさらに進んでゆく。どんどん高度を下げ、かなり進んでから吉松へと向かう道へ入る。その途中で宮崎県から鹿児島県へと戻る。

  吉松は、肥薩線と吉都線(都城〜吉松)との接続駅である。実はこの吉都線も歴史ある路線で、都城から霧島神宮駅を経て隼人に至る現在の日豊線ルートが開通するまでは、この吉都線こそが「日豊本線」だった。吉松駅は、当初「鹿児島本線」と「日豊本線」が合流する拠点だったのだ。

  鹿児島本線がはじめに矢岳まわりで引かれたのは、さきに述べた防衛上の理由に加え、吉松から現吉都線を経由することで、宮崎方面にも直結できるメリットを考慮してのことだったという。実際、2000年までは急行「えびの」がそのルートで運転されていた。その「えびの」に引導を渡したのは、明らかに九州自動車道の存在だろう。九州山地をぶちぬいて、人吉〜えびの間が開通したのが1995年。これにより、福岡からえびのを経て鹿児島および宮崎へと達する高速道路が全通した。八代から内陸に入り、人吉を経て、吉松(えびの)で鹿児島方面と宮崎方面に分岐する。明治・大正期の鉄道幹線ルートが、現代の高速道路のコースを先取りしていたというのが興味深い。ただ、同じ経路で明治の道と平成の道とでは勝負になるはずもない。かつて1日3往復の「えびの」が6時間かけていた熊本〜宮崎間を、現在では約1時間おきに運転される高速バスが、3時間余で結んでいる。

  そんなかつての拠点駅であった吉松駅だが、一昨日は乗り換え時間がわずかだったために観察する暇がなかった。今日は駅の人吉側の踏切から構内を眺める。敷地は広い。使われているのかは分からないが、照明用の古めかしい鉄塔が立っている。最近の駅ではあまり見られない光景だ。線路は往時よりかなり間引かれているのだろうが、それでもホームに面して5本ほどあり、ホーム自体も長いから、現在の運転の頻度からすれば明らかに持て余していることだろう。

  踏切が鳴り出した。ホームにいた赤茶色の列車が、駅を出てこちらに向かってくる。さきほど真幸で見送った「いさぶろう1号」が、折り返しの「しんぺい2号」となったものだ。あいにく逆光になってしまうが、これから再び矢岳越えに挑む列車にカメラを向ける。この列車が人吉に着くと再び折り返し、今度は私が一昨日乗車した「いさぶろう3号」となる。

吉松を出発する「しんぺい」 

 あの列車を追え

  さて、駅構内に視線を戻すと、出発を待つ列車がまだ2本いる。そのうちの1本は、キハ58系で、隼人行きになるようだ。時刻表で確認すると、「しんぺい」の7分後に吉松を発車することになっている。58系は私の好きな車両のひとつで、一昨日「いさぶろう3号」の次に乗る列車に58系が来ることを期待していたのだが、キハ40でがっかりさせられた(しかも冷房の効かないひどい車両だった)。「1号」だったらこれに乗れていたのに、と悔しくなった。

  かつては急行用として全国津々浦々で活躍していたキハ58系だが、老朽化により全国で大幅に数を減らしつつあり、今や「絶滅危惧種」となってしまった。九州でも、定期運転しているのはこの鹿児島・宮崎エリアだけとなったが、最近、大分にディーゼルの新車が入ったと聞くから、そこで余った車両で置き換える算段と思われる。

  となると、この肥薩線の58系も、おそらく次に来るときにはもういなくなっているだろう。乗ることがかなわないなら、せめて写真にその走る姿を収めたい。私は列車の行くほうへ先回りして、待ち受けることにした。

  車を走らせて吉松駅の前を通り過ぎ、線路に並行する道路(県道102号)を南下する。チャンスは一度。列車が来る前に良いポイントを見つけたい。しかしここは初めての土地。しかも時間の余裕はほとんどない。どこで車を止めるかはひとつの賭けになる。

  ところが、県道102号は線路を離れ、なにやら細い山道へと入って行く。道路地図も持っておらず、どちらへ向かっているのかも分からない。引き返す余地もなく、これはしまった、と頭を抱える。

  こうなれば一か八かで、とにかく前へ抜けるしかない。半分あきらめの気持ちで車を進め、しばらくすると集落へ出た。ちょうど脇の線路を、キハ58系の2両が先へ進んで行くところだった。これなら追いつけるかもしれない。姿が見えてしまったからには、追わねば気が済まない。

  ここからは、列車と抜きつ抜かれつの勝負となった。道路(県道55号)はほぼ線路に沿っている。列車は駅に停まるが、普通に走っている間は車より速い。列車に乗っているときは、時速60km出ていても速いと感じないが、線路よりも曲がりくねっている道路を走る車では、それに追いつくことはできない。しかも慣れない道で、先ほどは怖い思いもしている。無理な運転はすまいと心にブレーキをかける。

  写真を撮るにはこちらが前へ出て、かつ構えるための余裕時分が必要だが、なかなかそれだけの差を付けることができない。結局、霧島温泉駅のあたりまで、そんな調子で競争したが、そこからは道が線路から離れてしまい、ギブアップ。4駅間ぶんの並走は徒労に終わってしまったが、地図もない見ず知らずの土地で、むしろよくここまで追いかけてこれたものだと思う。

  県道50号から国道223号に入ると、谷間の急な下り坂となる。このあたりが霧島の外輪にあたるのか。せっかくなので、肥薩線の次の駅、嘉例川(かれいがわ)へ立ち寄ってみる。1903年、鉄道開通当時から存在する駅舎があるという。国道223号から入った県道56号沿いに、きちんと案内看板があり、脇道を下って行くとすんなりとたどり着いた。

  明治以来100年以上の歴史を誇る木造の駅舎は、山間に静かにたたずんでいた。入念に手入れがなされているとみえ、駅前は掃き清められた境内か何かのようだ。2004年に人吉〜鹿児島中央間に走り始めた特急「はやとの風」は、この嘉例川にも停車する。駅そのものは集落の中の無人駅に過ぎないが、「はやとの風」は速達列車というよりは観光向けの特急であり、その行程中の見所のひとつという意味合いが強い。(嘉例川と並んで古い駅舎を有する大隅横川にも、この列車は停車する。)週末には「百年の旅物語『かれい川』」という特製の駅弁も販売されるという。このため時刻表にも「弁」マークがついている。

  一昨日巡った一勝地・大畑・矢岳、そして真幸を含め、肥薩線にはこのような古風な駅舎が数多く残っている。もともと鹿児島本線として建設に力が注がれ、その後メインルートから外れたことで、古き良き建築がタイムカプセルのように残されてきたのだろう。それを掘り起こすきっかけとなったのが、九州新幹線の開通だったのだ。こうした設備を資産として生かす肥薩線の取り組みには、大いに期待したい。

明治の姿を今にとどめる嘉例川駅舎 

  この閑静な山間の雰囲気からは想像もつかないが、ここから南西わずか2,3kmの高台に、鹿児島空港がある。幼少のころに祖母に連れられて来たことがあるが、すぐに飽きてしまい、早く帰ろうと言い出したらしい。今なら飛行機の離着陸も見ていて楽しいと思うのだが、そのころは列車以外にはとんと興味のない子供だったようだ。

  さて、先刻の58系キャッチには失敗したが、まだ望みはある。さきの列車の後、隼人発吉松行きの普通列車がある。これがそのままの折り返し列車ならば、待ち受ければ同じものがやってくることになる。ただし、編成が入れ替わって別のものが来る可能性もある。

  さらに南下し、日向山(ひなたやま)駅近くの踏切で待ちかまえる。夏の青空、太陽が眩しい。駅から出てきたのは、思惑どおりのキハ58系2両編成。さっきは追っても追ってもとらえられなかったが、今度は向こうの方からこちらに来てくれる。まわりに草むす線路をゆっくりと進んできた列車は、南国の青空とともに、見事に私のデジタルカメラの中に収まった。これが、ここで見ることのできる最後の姿なのだろうなと思いつつ、見えなくなるまで見送った。

  ※ 南九州のキハ58系は、翌年定期運用を終えて引退した。

霧島の山々へと向かって遠ざかる58系の普通列車 

 桜島再び

  霧島の山々を下り、正面には錦江湾が開け、その向こうには桜島が偉容を現す。一昨日、列車で来たときには肥薩線終盤でだれてしまい、そんな感慨は薄かったが、改めて辿るとなかなかの演出だ。

  国道223号は国道10号に突き当たる。当初は錦江湾の東側を南下し、桜島に渡ってフェリーで鹿児島へ、などとも考えていたが、さすがに大仕事になりそうなので断念、素直に西を目指す。

  途中、加治木駅付近で、特急「はやとの風」の写真を撮る。「いさぶろう・しんぺい」と同じく、もとはローカル用の車両だが、大規模なリニューアルを経て観光特急になった列車だ。「特急」として走らせるのは・・という気がしなくもないが、ホームライナー的な列車も「特急」にしているJR九州なので、そのあたりは割り切っているのだろう。それにしても、この「真っ黒」の列車というのは、特に晴れた日には撮影が難しい。後で見返すと、車両がシルエット状に潰れて訳の分からない画になっていた。

加治木駅を通過してきた「はやとの風」。画質は調整しています 

  しばらくは街の中を進む。鹿児島中央から列車で30分ほどの位置なので、鹿児島のベッドタウン的な場所なのだろう。そんな平地部も重富あたりで尽き、国道10号は日豊本線とともに、錦江湾沿いすれすれの所に押しやられる。

  道路そのものはよく整備され走りやすい。流れがよすぎて、止まれない。列車に乗ったときには、間にあった道路が邪魔だったが、今度は運転手だから、せっかく海と桜島が間近に見えるポジションなのに、じっくり眺めることができない。うまくゆかないものだ。道路沿いに駐車スペースでもあれば・・と思いつつ進んでいったが、結局都合の良い場所が見あたらないまま、どんどん進んで行く。それだけ、幅に余裕のないところに道を造っているのだろう。

  1993年の水害で列車や車などが土石流に見舞われる被害が出た竜ヶ水駅前を通過し(今では普通列車の多くもこの駅を通過する)、やがて道路が線路の山側に移ると、鹿児島の市街地が近づいてくる。昔祖父か祖母かに連れられて、この近くにある磯庭園(仙巌園:せんがんえん)に来たことがある。桜島を望む、もと薩摩藩島津氏の別邸だ。とにかく、鹿児島の風景に桜島は欠かせない。

  この付近にようやく駐車できるスペースを見つけたので、車を降りて海岸に立つ。一昨日、そして今日と、桜島を見る機会は多かったが、ずっと乗り物の中からだった。今やっと、窓越しではなく、じかに錦江湾を見渡すことができる。桜島は今日も、青空に噴煙をあげつつ、海の上に鎮座するかのように圧倒的な存在感を醸している。

桜島。今日もくっきり 

  幕末に薩英戦争の舞台となった祇園之洲砲台跡の前を過ぎ、鹿児島市街地を通り抜ける。鹿児島駅が日豊本線と鹿児島本線双方の終点であるのと同様、東回りの国道10号(小倉〜大分〜鹿児島)と西回りの3号(北九州〜熊本〜鹿児島)についても、鹿児島市街でお互いの終点を迎える。市街地の「照国神社前」の信号がその境界である。

  あとは出水へと帰って行く道のりだ。3号線を北上し、市街地を離れると、やがて国道328号との分岐点にさしかかる。3号はもとの鹿児島本線に近いルートで海岸沿いを進むのに対して、328号は内陸を進み、出水で再合流する。距離的に328号の方が近道であり、スムーズに走れそうなのでこちらを選ぶ。

  328号は比較的整備されてはいるが、山越えがあり、山間部では交通量がかなり少ないので、やや心許なくなる。峠を越えて薩摩川内市に入り、しばらくすると入来という場所に来る。これも昔の記憶だが、この道沿いに旧宮之城線(川内〜薩摩大口間、1987年廃止)の入来駅があり、祖父の車で立ち寄った記憶がある。まだ廃線になる前だったか、廃線後だったかの記憶は定かでないが、今もなんらかの鉄道の痕跡があるかもしれない。

  果たして、そこは記念公園となっていて、駅が存在していた場所だということははっきり判った。踏切の警報機やポイント切り替えの転轍機などが置かれ、SLを模した建物が立っている。ただし建物には入れず、何かゆかりの品が保存されているのかどうかはうかがえなかった。

入来駅跡の記念公園 

  さらに328号を進む。所々、廃線跡を転用したのかと思える細い道路が沿う。国鉄末期の赤字路線削減で、この宮之城線だけでなく、鹿児島県内では山野線(水俣〜薩摩大口〜栗野)、大隅線(志布志〜国分)、志布志線(都城〜志布志)が廃止された。時刻表の路線地図が、昔のと比べて特に寂しくなったエリアである。いつか機会があれば、それらの廃線跡巡りもしてみたいものだ。

  やがてさつま町の中心部へ至る。もとは宮之城町といい、市町村合併に伴ってさつま町となったのだが、どうもピンとこない。合併前の3町の中に「薩摩町」があったからそれを取ったのだろうが、旧薩摩国の拠点というわけではなく、いち地域を表すには適用範囲が広すぎるように思える。(今流行りの平仮名表記というのも、個人的には好きでない。)それはともかく、川内川が中央を流れる旧宮之城町中心部は、先日の水害がひどかったと見えて、まだ道路が泥を被ったような状態になっている。商店街では、出水と同様、水に濡れた家財を道端に出して片づけに追われる人々の姿が見える。

  そんな町中を抜けて、328号は最後の山越えにかかる。この道も昔は1車線の曲がりくねった山道だったが、今は完全に2車線の立派な道路だ。通行量は多くなく、快適に進む。そして商店街を抜けて、無事に祖母宅に帰り着いた。テレビをつけるとちょうど、さきほど通ってきた出水の商店街で、洪水に見舞われた店舗から中継をしていた。ご多分に漏れず、ここもシャッター通りと化していた商店街だが、弱り目に祟り目というべきか、がらんとした店内が寂しげだった。

 

 トップ > 旅日記 > 旅日記06-2(3)