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 新生つばめ、黒光り


 1992年8月10日
 出水→西鹿児島→都城→吉松→八代→出水

  「つばめ」という名称は、特急の愛称としては由緒あるものだという。しかし私が生まれて間もなく、山陽新幹線の博多延伸と同時にこの名称は消滅してしまったので、私にとっては「過去にそんな名前の列車があったらしい」という存在でしかなかった。

  その名が復活したのが、1992年夏。鹿児島本線のL特急「有明」のうち、博多(一部門司港・熊本)〜西鹿児島間のものが「つばめ」に改称された。もちろん伝統ある愛称をいただいた以上、名前負けは許されない。この「つばめ」用にJR九州は「787系」という車両を開発した。とりあえずは、もともと「有明」用に走っていた「ハイパーサルーン」の783系と半々で、「つばめ」に入るようになった。

  今回は祖父宅の最寄りである鹿児島・出水(いずみ)からの出発。やはりまずはその787系とやらを経験してみたい。つばめ1号は熊本始発で、787系の9両編成。外・内共に黒主体のシックな装い。なるほどツバメだ。

JR九州の自信作、787系「つばめ」 

  出水 8:20 → 西鹿児島 9:37 [特急「つばめ1号」/電・787系]

  客室は天井が高く、頭上の荷物入れはフタつき。従来の国鉄車両の型を大胆に打ち破ろうという意気込みがうかがえる。しかし、トイレの扉の開け方に一瞬戸惑う。ちょっと悩んで、気づいた。従来列車のトイレのドアは引き戸が普通だが、この列車は押して開けるタイプだったのだ。斬新さも時に混乱を招きかねないが、こういう細かい部分にも固定概念にとらわれない発想が反映されているのだろう。

  出水を出た列車は快適に走り、阿久根〜川内(せんだい)間では美しい海岸風景を見せてくれる。1時間あまりの快適な旅の末、「つばめ」は西鹿児島に到着。「西」と付いていても、こちらが鹿児島の実質的な中心となっていて、将来開通する九州新幹線の終点も、西鹿児島となる。

  薩摩弁は言葉もイントネーションも独特で、祖父母同士で会話されると私にとっては外国語のようなものだ。西鹿児島から鹿児島までは市電に乗ったが、運転士の言葉は当然ながら日本語なのだが、アクセントというか、しゃべり方はやはり独特。

鹿児島駅前から発着する市電。南国らしく、市街地も開放的 

  鹿児島駅近くの港からは桜島行きのフェリーが出ている。鹿児島といえば桜島が海の向こうでどーんと構えて噴煙を上げて、という光景が浮かぶが、このときは好天にもかかわらず、かすみがかかったようになっていて、肝心の桜島はほとんど見えなかった。

  鹿児島駅は、名目上は鹿児島本線・日豊本線双方の終点で、もとは拠点駅だったことに違いなかろうが、今や閑散としたヤードが広がるばかりで、駅舎は古びたコンクリの橋上駅、規模は「西」と比べものにならない。ただし、時刻表の巻頭地図を見れば、「県代表駅」は西鹿児島ではなく、鹿児島となっている。数少ない鹿児島駅支持者である。(注1

  鹿児島 10:52 → 都城 12:14 [快速「錦江6号」3536M/電・475系]

  鹿児島からは日豊本線を東進する。乗り込んだ快速「錦江」は、もと急行型の475系。なかなか高速で飛ばすのは、かつての急行の名残だろう。しかし、モーター音があまりにもやかましい。昔はこんな列車で急行料金を徴収していたのか、あるいは快速格下げでイジケてこうなったのか?

  もっとも、そんな電車だったにもかかわらず、途中ではよく寝ていた。睡魔は強し。

 明治人の執念を見る

  都城 13:05 → 吉松 14:30 [普通 627D/気・キハ58系]

  都城からは吉都線に入る。ここまで、日豊線で霧島山の南側を越えてきたが、吉都線は霧島の北側へとまわってゆく格好だ。そんな吉都線は、当初は日豊本線の一部をなしており、後述の肥薩線共々、かつては南九州の幹線だった。熊本から山越えで宮崎にいたる急行「えびの」はその名残である。(注2

  夏休みなのに、案外学生の利用が多かったのが意外。えびの高原のふもとに上がってゆくが、南方に見えるはずの霧島もかすんでほとんど見えず、残念。やがて肥薩線と合流して吉松に達する。

  肥薩線は、八代から人吉・吉松を経て隼人へと至る路線で、明治42年に全通した時点では「鹿児島本線」であった。吉都線が日豊本線だった時期には、吉松は2つの幹線の合流点として機能していたのだ。しかし、これから挑む矢岳の峠越えがネックとなり、昭和2年に八代〜出水〜鹿児島ルートが完成すると、本線の立場をそちらに譲ることになった。従って今回の旅行は、新旧の幹線乗り比べということにもなる。

  幹線時代の名残か、この吉松のホームは異様に長く、どこか古めかしい雰囲気が漂っている。そんな構内にいるのは、ローカル気動車3両ばかり。その3両のうちの1両、キハ52の単行が、これから乗る人吉行きとなる。乗客のうちの多くが、自分の同類と見えた。

吉松駅の長大ホームから単行気動車に乗る 

   吉松 14:50 → 人吉 15:41 [普通 870D/気・キハ52]

  吉松を出ると、単行気動車はエンジンをうならせ、今にも止まってしまいそうなペースで勾配を上がってゆく。これまで進んできたえびのの山ろく地帯が眼下に広がる。かすみがなければ、その向こうには霧島連峰がそびえるはずなのだが・・・

列車の窓から望む、霧島連山のパノラマ 

  やがて列車は、スイッチバックのある真幸(まさき)に着く。勾配区間の途中にある駅なので、いったん引込み線に入るのだ。さらに坂を登り、えびの地方に背を向けてトンネルに入る。この峠の最高地点となる矢岳第一トンネルだ。長い。ようやく抜けると、矢岳駅。

  ここからは下り坂となり、今までとは打って変わってスピードを上げる。人里離れた山の中を延々と駆け下り、圧巻のループ+スイッチバックを持つ大畑(おこば)へ。こんなところで駅を利用する人が果たしているのかとも思える。

  列車はさらに森の中を慣性で突っ走り、ようやく里まで下ってきたなと思うともう人吉。明治の技師の執念を見る思いの50分は、全く飽きることがなかった。

  人吉 16:10 → 八代 17:24 [普通 872D/気・キハ47]

  人吉で途中下車して街を少し歩き、肥薩線の残りの旅を続ける。人吉から八代までは、球磨川沿いの谷間をひたすら下ることになる。この球磨川は三大急流の一つ(あと2つは、最上川と富士川らしい)と言われるが、車窓から見る限りは割に緩やかに見える。もちろん、実際に舟に乗って下ってみれば、やはり急流なのだろう。列車のほうは二カ所ほど、がけ崩れのため徐行した。自然美と自然災害は隣り合わせなのだ。

  鹿児島本線が、当初あえて内陸ルートで引かれたのは、防衛上の理由で、海岸線ルートを軍部が反対したためだと聞いたことがある。軍閥が幅を利かせていた時代ならではの話だが(特に明治期は、薩摩出身者が政治の中枢を担っていたためだろう)、拙い明治の技術で、急流あり急坂ありの厳しい地形の中に、よくぞ「本線」を引いたものだと思う。そうやって造られた路線そのものはローカル路線に成り下がってしまったけれど、そこで培われたノウハウは、のちの鉄道開発に大いに貢献したに違いない。

肥薩線は球磨川の急流に沿う 

  八代 17:42 → 出水 19:16 [普通 2139M/電・717系]

  谷がひらけ、八代で肥薩線の旅は終わる。球磨川と肥薩線を跨いだ鹿児島本線が右側に回り込み、こちらに寄り添う格好で合流してくる線形は、肥薩線のほうが当初の鹿児島本線であったという歴史を物語っている。

  八代駅に西鹿児島行きの787系「つばめ」が入ってきたが、そちらには乗らず、後続の普通列車で出水へと向かった。

 注記

  注記の内容は2016年12月現在。

  1. 2004年3月の九州新幹線開業に伴い、西鹿児島駅は「鹿児島中央」駅と改称。JTB時刻表の県代表駅も鹿児島中央となり、鹿児島駅はついに代表駅の座から陥落した。ただし、大判のJR時刻表では、鹿児島中央・鹿児島の両方が代表駅扱いとなっている。

  2. 急行「えびの」も2000年3月で廃止され、吉都線はついに完全にローカル路線化した。

 

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