1.JR発足

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  1987年4月1日、「日本国有鉄道」は分割・民営化され、7つの鉄道会社(JR)として再出発を果たしました。

  2007年春、日本の鉄道界の転機となったその出来事から、20年が経過します。その間に、鉄道も、それを取り巻く社会情勢も、大きく変わってきました。その変化を追い、私自身の旅の変遷と重ねて、20年の歴史を辿ってゆきたいと思います。

 多難の船出

  JRが発足したのは、私がちょうど小学から中学に上がったのと同時でした。

  小学3年のときまで神戸市東灘の阪神電鉄沿線に住んでいた私にとって、普段国鉄は縁遠い存在であり、その後は神戸を離れたのでますます遠ざかってしまいました。当時の東海道線を走っていた103系や113系は、画一的で野暮ったい印象が強く、子供心には実に魅力のない電車でした。

  一方、九州の両親の実家に行くときに乗る新幹線や特急列車は、帰省の高揚感と相まってわくわくする存在でした。東海道線でも、新快速の117系は好きな電車でしたが、なかなか乗る機会には恵まれませんでした。私にとっての国鉄の列車は、ちょっと遠い存在であったぶんだけ、どこか遠くに連れて行ってくれるような、あこがれの気持ちをかき立てるものであった半面、古くさくてあか抜けないイメージの付きまとうものでもありました。

  そのうちに、「国鉄分割民営化」という言葉を、しきりに耳にするようになりました。前近代的で巨大すぎる組織であった国鉄は、時代の流れについて行けず、巨額の負債を抱えて行き詰まってしまっており、その打開策としての出直しでした。政治的にはさらに複雑な過程があったようですが、ともかくこれは社会的にも、またファンの観点からも大きな転機でした。

  民営化に向けての段取りは、不採算路線の廃止や、貨物・荷物輸送の削減といった合理化政策と並行して進められてゆきました。そしてついに、1987年3月末をもって国鉄は解体、その業務は6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社に引き継がれることとなったのです。

  JR発足の当日、私は帰省先の大分にいました。別にその日だからと意識したわけではありませんが、私は父の実家から、バスに乗って日豊本線の中津駅まで行きました。そこで撮影したのが下の写真。485系の特急「にちりん」でした。当然のごとく、側面にはまだ「JNR」(国鉄)のマークが付いていました。

JR発足当日の「にちりん」 

  国鉄を一旦解体し、新会社として発足したJRですが、当然ながらその前途は厳しいものと予想されました。社会のニーズにいかに応じるか。離れてしまった利用者を呼び戻せるのか。古びた設備をどのように刷新してゆくか。採算は取れるのか・・。名称の書き換えや制服の切り替え等にかかる経費だけでも経営が傾くんじゃなかろうか、といった、揶揄とも取れる報道が、当時なされていたのを覚えています。

 新時代の足音

  さて、JR化後の3年間、すなわち中学在学中、私は鉄道趣味からは幾分遠ざかっていました。最も単純な理由は、電車代が高く(大人運賃に)なって、中学身分の小遣いではおいそれと乗りに行けなくなったというところです。このため、九州帰省時を除いて、この時期のJR利用は、ごく限られたものとなってしまいました。

  しかし、その時期の限られた記録を見返すと、徐々にではありますが、「国鉄」が変化を遂げつつあったことが読み取れます。

  87年夏には、再び九州(鹿児島)に帰省していますが、その時点での特急は、まだ国鉄時代から大した変化はなし。側面にはJNRマークが残り、JRと「同居」した状態でした。

87年夏時点の特急「有明」 

  しかし、翌1988年には、JNRマークは消えていました。またこの時点で早くも、九州には特急用の新型車両783系がデビューしていました。

  新型車両については後述しますが、JRがイメージチェンジを図るべくまず手をつけたのが、既存車両の塗り替えでした。

  国鉄時代、特に高度成長期から大量生産された世代の車両は、全国どこへ行っても基本的に共通の規格・共通のデザインでした。どこにでも使い回しが効き、製造から保守管理まで一元化できるという点で、国鉄ならではの特色だったといえますが、各地方のニーズに合わせる面では難がありました。全国で列車が同じ顔をして走っていたその状況に、利用者より現場サイドの都合を優先し、お仕着せで物事を進めてきた国鉄の姿勢の一端が現れていました。

  そのようなイメージを払拭するねらいもあったと思われますが、民営化の前後から、各地にさまざまな「ご当地カラー」がお目見えしました。たとえば九州には、白地に紺色のラインを入れたデザインが普及。のちにJR九州は赤、黄色、黒といった奇抜な配色を多用するようになりましたが、今でも国鉄世代の車両には、白+紺カラーが一般的に使用されています。

地味な配色から爽やかな白基調に変わった415系(左) 

 新戦力台頭

  このような手っ取り早いかたちでのでイメチェン作戦が図られる一方で、JR各社は自前の車両開発にも乗り出していました。

  九州では早くも、民営化から1年を待たずして、783系が「ハイパーサルーン」という愛称で登場しました。これは純粋な新形式としては、JR旅客6社の中でも初めてのものとなりました。ステンレスの車体、半室構造の客室、前面パノラマ等、従来の特急車のイメージを一新し、JR世代の車両開発の方向付けを示すものとなりました。

デビューしたばかりのハイパーサルーン783系 

  JR四国は、1989年に2000系気動車を導入。カーブや勾配区間が多い四国路線にあわせ、気動車としては世界初となる制御振り子式の車両となりました。車両番号に「モハ」や「キハ」といったカタカナ記号を付さない四国独自のナンバリングも、ここから始まりました。

プロトタイプ2000系 特急「南風」に(1990.1) 

  JR各社がまず特急列車に新形式を投入した中、JR西日本が初めてデビューさせたニューフェイスは、新快速用117系の後継となる221系でした(1989年)。同社が、いわゆる「アーバンネットワーク」を、戦略上いかに重視していたかが察せられます。なお、JR東海も同時期に新快速用の311系を世に送り出し、近郊列車としては初の最高120km/h運転を開始しました。

「新快速」221系 

  1988年3月に津軽海峡線、同年4月には瀬戸大橋線(本四備讃線)が相次いで開業し、ついに日本のJR線がすべて鉄路で結ばれることとなりました。1990年1月、私は瀬戸大橋線を利用し、生まれて初めて四国の地を踏みました。高松で折り返したに過ぎませんでしたが、ずいぶんと世界が広がった気がしました。ただしこの20年で、私が鉄道で四国に渡ったのは、このときと2000年1月の2回きり。私にとって四国は、近くて遠い地のままです。

瀬戸大橋通過中 

 過去の清算

  こうしたテコ入れが進められる一方で、国鉄末期から進められていた赤字ローカル線の切り離しは、JR化後も続けられていました。特に顕著だったのは、北海道・北九州(筑豊地区)・および南九州といったエリアで、時刻表巻頭の路線地図に網の目のように巡らされていた太線が、年を追って間引かれ、寂しくなってゆきました。一方、都市圏に比較的近い路線の中にも、貨物輸送の役目を終えた臨港路線など、廃止対象となってしまったものがあります。

  その多くは、バス転換というかたちで姿を消しましたが、第三セクターへの移管を行って存続したものも少なくありませんでした。私の地元では、加古川線の支線であった高砂線・鍛冶屋線は廃止、三木線・北条線はそれぞれ三木鉄道・北条鉄道として再出発となりました。

  鍛冶屋線の廃止は1990年3月末のこと。この鍛冶屋線と、同時に廃止された大社線、宮津線(→北近畿タンゴ鉄道)をもって、一連の国鉄赤字路線清算は完了しました。

旧鍛冶屋線鍛冶屋駅跡。車両と駅舎が保存されている(03.9.15) 

  廃止対象路線となった場所の多くで、熱烈な反対運動が起きたと聞きます。そうした流れの中で、第三セクターによる生き残りの道を探ったところも少なくなかったわけです。しかし、それら生き残った路線の多くが依然苦戦を続け、近年改めて存廃問題にさらされている路線もあるという状況を思うと、感情論や一時の熱意だけでは動かしがたかった現実の厳しさを思い知らされますし、ある意味で非情ともいえたローカル線切り離しも、全国ネットとしての鉄道を再構築するためには致し方なかったのかなと思えます。

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