JR鍛冶屋線


  加古川線およびその支線は、播州鉄道により順次開通しましたが、鍛冶屋線野村(現・西脇市)〜鍛冶屋間は、1923年5月に全通。なお、加古川線野村〜谷川間の開通は鍛冶屋線開業の後であり、歴史的な過程からも、実質的な運行形態からも、加古川〜野村〜西脇〜鍛冶屋がメインルートで、野村〜谷川のほうがむしろ支線的な扱いでした。

  西脇駅は西脇市の中心にあたり、列車運行の拠点でもありました。その先は杉原川に沿う格好で、中町(現多可町)鍛冶屋へと達していました。野村〜鍛冶屋間13.2kmの路線でした。

  国鉄末期の第三次特定地方交通線に指定されて廃止が決定。第三セクター線としての存続は断念され、JR化後の1990年3月末をもって営業を終えました。(これは宮津線、大社線とともに、国鉄末期〜JR初期のローカル線廃止の最後となるものでした。)それでも、その時点での運転本数は、野村〜西脇間24.5往復、西脇〜鍛冶屋間14往復と、現在の多くのローカル線と比べても多いほどでした。その後野村が「西脇市」と改称され、西脇市内の新たな拠点駅というかたちにはなっていますが、市街地の南端という不利は否めません。せめて野村〜西脇間だけでも残せたならばと悔やまれますが、不採算路線の清算が急がれた当時の状況では、個々の事情を加味することなど望むべくもなかったのでしょう。

  当時盛んに廃止反対運動が行われたといい、その名残か、鉄道の痕跡は比較的色濃く残されています。旧市原駅跡には鍛冶屋線記念館が立ち、ゆかりの品が常時展示されているほか、旧市原、旧鍛冶屋にはそれぞれ加古川線系で活躍していた車両(キハ30系)が置かれています。廃線跡にはさすがに鉄道時代の痕跡はほとんどありませんが、ほとんどが遊歩道または道路として整備され、各駅跡になんらかの記念碑的なものがあるため、その跡を辿るのは比較的容易です。


鍛冶屋線廃止直前の硬券記念乗車券
(自由中の水色ジャージ様提供、禁転載)

 鍛冶屋線 野村(現・西脇市)〜鍛冶屋

  写真はクリックで拡大表示。2008年4月21日、2007年8月16日、2003年9月15日現在のようす(日付はそれぞれの大判写真に記載)。茶色い文字は看板からの引用です(一部不鮮明につき不確かな部分あり)。

 
西脇市
  加古川線と鍛冶屋線の接続駅だった野村駅。谷川〜野村〜西脇・鍛冶屋へと直通する列車もありました。現在では、西脇駅に代わる市中心駅として、「西脇市」駅を名乗ります。

  ホームには、電照式の乗り場案内表示器があり、上から「加古川方面」「鍛冶屋行」「西脇行」「谷川方面」となっていました。西脇までが、鍛冶屋線というよりも、加古川線の一部のようにみなされていたことを物語ります。真ん中2つが使われなくなった後も、10年以上使用されていたことになりますが、2003年から04年の間に、乗り場ごとの小さなLED表示器に交換されて姿を消しています。
 
西脇市

西脇
A

B
  西脇市駅の北側で、右へと大きくカーブする谷川方面への線路に対し、遊歩道が直進する格好で北へと伸びます(A)

  遊歩道はいかにも廃線跡という風で、築堤上を進み、旧西脇駅付近まで続きます(B)
西脇 A

B

C
  遊歩道が突如2車線の道路となり、この道は旧市原の先まで続きます(A)

  旧西脇駅付近には、この道路に面してホテル等ビル(アピカ西脇)が立ち、その下はバスターミナルとなっています。ここからは三ノ宮行きの急行バスや大阪行きの高速バスなどが発着し、鉄道のなくなった今も西脇市の交通拠点として機能しているようです。駅の痕跡はほとんどありませんが、ビル向かいの道路のふくらみ(公園のようになっている)に、それらしい雰囲気があります(B)

  アピカ脇の道路を東側に入ったのがC。こちらがもともとの駅前通りだったと思われます。こちらはいかにも旧市街という風情のシャッター通りになっていて、堂々としたビル群とのギャップを感じさせられます。
西脇

市原
 2車線道路は北上を続け、市街を抜けて杉原川西岸を経て、旧市原駅へ。
市原 A

B

C

D
  鍛冶屋線は大正2(1913)年に西脇まで、同10(1921)年に市原、同12(1923)年に鍛冶屋まで開通しています。

  杉原川のほとり、2車線道路沿いに、「鍛冶屋線市原駅記念館」が建っています(A)。これは、大正の開業時の駅舎を模した再建だとのことで、月曜日を除く日中、公開されています。

  Bは道路反対側から。道路側出入り口に切符売り場が再現され、ここに改札口があれば、そこに列車がやってきそうな雰囲気です。通って行くのは自動車だけですが・・・

  館内には、鍛冶屋線ゆかりの品が展示されています。サボや「さようなら鍛冶屋線」のヘッドマーク、西脇駅構内図など、結構本格的な品揃えです(C)

  記念館北には、車両が腕木式信号などと共に展示保存されています。車両はキハ30系の2両編成。車内ロングシートの「通勤形ディーゼル」ともいえそうですが、野ざらしの割には状態は悪くない。ただ、2003年(右下)と比べると、2007年には塗装の剥離・さびが目立ってきており、気になるところです(D)
市原

羽安
  市原から少し先、国道427号に突き当たる「市原北」信号で2車線道路は終わり、この先の道は「星の遊歩道」と名付けられています。
羽安 A

B

C
  田んぼの中をしばらくまっすぐ北上し、羽安(はやす)駅跡に。ホームを模した休憩所になっています(A)

羽安駅跡
  この場所は、旧国鉄鍛冶屋線の「羽安駅」のあったところです。「羽安駅」という名前は、安田(?)地区と羽山村の2つの名前を併せてつけられました。
  かつての羽安駅には、倉庫や荷物専用ホームがあり、駅前には運送店や製材所、飲食店などがありました。この駅からは、この地方の特産品である山田錦(酒米)や播州織りが、送り出されていました。また周辺の人々には、親しみやすい「駅」として70年の間利用されましたが、平成2年鍛冶屋線とともに、惜しまれつつ廃止となりました。
(B) ※一部不鮮明な部分有り。

  Cがおそらく「駅前」側。Bに書かれていたような賑わいの名残が見受けられます。
羽安

曽我井
A

B

C

  羽安の少し北で、まっすぐ北上してきた遊歩道は大きく左へカーブします。終点近くには、案内の看板が立ちます(A)

星の遊歩道
  この遊歩道は、かつてこの地を通っていた旧国鉄「鍛冶屋線」の跡を利用して作られたものです。
<鍛冶屋線の歴史>
  旧鍛冶屋線は、現在の「西脇市駅」から「鍛冶屋駅」までの間 延長13.2km 6つの駅があり、大正12年全線が開通しました。沿線の人々には、身近な鉄道としてたいへん親しまれてきましたが、社会状況の変化にともない、平成2年に70年の歴史をとじました。
<星の遊歩道>
  この道は、豊かな自然の中を、歩行者と自転車が安全に通行できるように作られました。この道では、春夏秋冬の夜空を表す天球図と代表的な星座を、歩きながら楽しむことができます。


  カーブの先で、県道296号に突き当たり、遊歩道は終わりを告げます。終点部には、線路の車止めを模した柵が設置されています(B)

  その先、再び2車線道路が始まります。小山の北側を回り込む格好でカーブし、西向きに進みます。このあたりで、西脇市から多可町中区(旧中町)へ移ります(C)
 
曽我井 A

B

C

  曽我井駅があったと思われる場所は道路に取り込まれ、その周囲が広場になっているだけで、駅の名残は薄い(A)。 しかし、カラー写真入りの説明板と駅名標が、駅の存在を証ししています(B)

思い出の曽我井駅
  鍛冶屋線は大正12年(1923年)5月6日に全線開通。以来、中町の人とものを運ぶ大動脈として活躍しました。昭和36年(1961年)12月20日には曽我井駅が開業、地域の玄関口としてにぎわいました。とりわけ曽我井駅は、地元の熱意で開設された全国唯一の請願駅でした。
  鍛冶屋線は、時代が車社会へと変わるにつれ乗客が減りつづけ、平成2年(1990年)3月31日に廃線となりました。沿線住民には悲しいことでしたが、地元の大きな努力で開設された曽我井駅の”こころ”は永遠です。曽我井駅メモリアルパークは、先人の心意気と歴史を今に受けつぎ、これからの地域の公共交通を考える道しるべです。
  公園の前には、かつて鍛冶屋線のレールが走っていました。今は、あとかたもありませんが、人々の心の中にいろいろな形となって走りつづけています。これからも「曽我井駅」物語が、人から人へ、時から時へと語りつがれていくことでしょう。
  そんな思い出につつまれた公園は、ふるさとの未来創造を願ってつくられました。


  またここには、廃止反対運動のときに掲げられていたと思われる看板も残っています。ペンキのかすれた文字が、その無念を今に伝えます(C)

みんなで守ろう 国鉄鍛冶屋線
 ★切符は往復を買いましょう
 ★定期券は地元駅で買いましょう
 ★通勤、通学、旅行には汽車を利用しましょう
田園文化工芸都市 中町

 
曽我井

中村町
  2車線道路はカーブし、北西方向へ転じます。
中村町 A

B
  2車線道の「あかね坂公園前」信号の辺りが中村町駅でした。この交差点の角の部分は「あかね坂公園」として整備されており、ここに駅があったことを示すものとして、駅名標が立っています。ただし、後述の鍛冶屋駅に中村町駅の名標があり、ここにあるものは他の駅に保存されているものより綺麗なことから、おそらくレプリカなのでしょう(A)

  交差点から、もとの駅前方向を望む。このあたりは旧中町の中心地らしく、合併後の多可町役場や、ベルディーホール(文化会館)なども近い(B)
中村町

鍛冶屋
A

B

C
  ベルディーホールの前を過ぎ、県道86号に突き当たったところで、2車線道路は突如終わり、この先はまたも遊歩道となります(A)

  緩くカーブし、杉原川にさしかかります。ここにかかる橋は、鉄橋を改造したか模したか、その雰囲気を残します(B)

  終点鍛冶屋に向け、遊歩道は田んぼの中を北上してゆきます(C)
鍛冶屋 A

B

C

D

E
  終点鍛冶屋駅の駅舎は、「鍛冶屋線記念館」として残っています。市原と違って内部の公開はされていませんでしたが、列車が向こう側に置かれているので、それっぽい雰囲気はあります.。ただし、周囲をぐるりと道路に囲まれ、ロータリーの真ん中に駅が孤立して置かれているような状態。鍛冶屋線の運命を象徴づけるような構造で、複雑な気持ちがします(A)

  ホーム側には、気動車(キハ30-69)が1両展示されています。状態は目立って悪いわけではないものの、やはり塗装のあせや剥離など、経年劣化は目に付きます(B)

  ホームには、鍛冶屋と中村町の駅名標(C)。中村町については、退色具合などからして、これが本物なのでしょう。

  脇には神姫バスの乗り場が。鉄道廃止に際し、代替バス用となったのでしょう。西脇市方面へのバスが発着します。新大阪・三宮行きとも書かれていますが、現在では運行されていないようです(D)

  駅前側(E)。中村町と比べると閑散としていますが、「玄関口」の名残はあります。
  

 トップ > 西兵庫の鉄道 > 廃線跡 > JR鍛冶屋線