三兄弟の旅立ち

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 三木鉄道車両としての終焉


2005年3月21日、三木駅構内に揃ったミキ300の3兄弟。

  1985年4月の三木鉄道発足時から在籍した、ミキ180-101、102レールバスを置き換えるために導入されたのが、「ミキ300」でした。ハイフン以下の車番はミキ180からの連番となったため、1両目(1998年導入)が300-103、以下104(1999年)、105(2002年)の3両。車両数は増えましたが、これは主にラッシュ時の三木駅での到着即発車を想定したもので、北条鉄道のような2両連結の運転が行われることはありませんでした。このため、ほとんどの時間帯において2両余る状態であり、そこに新車3両とは、決して良いとはいえない経営状態に対して分不相応に思えました。

  それでも開業から20年、せっぱ詰まった存廃議論はありませんでした。しかし2006年の市長交代を機に、流れは一気に廃止へ傾き、2008年3月末をもって三木鉄道はその歴史を終えることになりました。最後の数日、列車が超満員になることもしばしばでしたが、1両単行でのピストン運転というスタイルを変えることはありませんでした。

  最終日となった3月31日、日中は「次男」のミキ300-104が厄神〜三木間を往復。慢性的に遅れつつも、無事に大役を果たしました。「長男」103が三木駅2番ホームに待機し、夕方には普段行わない到着即発車で、一部の列車に就きました。

  最終列車、厄神発三木行き147列車は、300-104での運転。この三木駅到着をもって、90年余に及んだ三木線の歴史にピリオドが打たれ、三木鉄道は永遠に過去のものとなりました。と同時に、「ミキ300」という車両がここで客を乗せて走るのも、最後となりました。

  3両の車両については、廃止決定時点ですでに売却の方針が示されていました。当初は、2両を売り、1両は地元で保存するという話でしたが、のちに3両とも売却されることになりました。

  経年10年以内と新しく、またそう酷使されているわけでもないミキ300に、多くの事業者が注目しました。三木鉄道と同様に、国鉄末期に第三セクター転換した鉄道の多くは、車両更新の時期に面しており、地方私鉄も含めて、状態の良い中古車両が手に入る数少ないチャンスと目されていたようです。

  中でも、同じ兵庫県内の北条鉄道は、早くからミキ300に関心を示していました。両者はいずれも旧国鉄加古川線の支線で、同時に第三セクター転換され、同じタイプの車両を入れてきた経緯があります。ミキ300と同タイプの「フラワ2000」が2両在籍しているものの、あと1両はミキ180と同世代の「フラワ1985」で、早晩置き換えの問題に直面することが見えていました。ミキ300が手に入れば、願ったり叶ったりというわけです。


2008年4月6日。ミキ300-104(手前)と103。

  フィーバーの去った三木駅構内には、役目を終えて留置されるミキ300の姿。廃止までの動きがあまりにもめまぐるしく、線路の跡地利用策もこれから考えようかという有様で、3兄弟の去就も定まらず、ここで沙汰待ちの状況が続きました。

 売却、搬出、新天地へ

  秋になり、新しい方の2両が競売にかけられた結果、「三男」の105号は岐阜の樽見鉄道が落札。3,470万円での売却となりました。しかし104号は最低額に達せずにお流れ。関心を示した事業者は多かったものの、年々鉄道業界を取り巻く環境が厳しさを増す中で、鉄道各社はどこもぎりぎりの経営に迫られており、条件が折り合わなかったのでしょう。三木鉄道廃止への過程については、事を急ぎすぎの感もありましたが、後にしてみると、それも仕方なかったのかなと思えてきます。

  しかし、水面下では引き続き交渉が行われていたようで、のちに104号の行く先が決まりました。1,785万円で購入者となったのは、やはり北条鉄道でした。

  12月8日、まずその104号が旧三木駅から搬出。日中にクレーンでつり上げて台車に乗せ、夜に出発して北条鉄道田原駅付近で搬入されました。その様子を取り上げた北条鉄道のサイトでは、同車がすでに「フラワ2000-3」と名付けられていました。99年デビューの同車は、北条鉄道既存のフラワ2000より少し古いものの、同鉄道内では「後輩」として仲間入りしたことになります。

  翌9日には、105号が同様に搬出され、11日にかけて陸送、樽見鉄道本巣駅にて搬入されました。

トレーラーにつながれ、出発を待つミキ300-105 

  この時点で、旧三木駅には「長男」の103号だけが残りました。競売にはかけられず、その後の去就も明らかにされないまま年が明けました。2009年3月、移籍した2両が新天地での活躍を始めたそのころ、旧三木鉄道線ではついに、厄神側から線路等設備の撤去が始まりました。鉄道廃止から1年、三木市の財政はさらに苦しくなり、廃線跡の活用計画にも暗雲が立ちこめてきました。清算の動きが風雲急を告げる中、線路撤去が完了するとされる6月末を前に、103号の進退を決めるリミットは迫っているように思えました。

  そんな中、6月の初旬になってついに、その行き先が発表されました。茨城県の「ひたちなか海浜鉄道」。売却額は500万円。

  弟たちから遅れることちょうど半年、6月8,9日に、最後の搬出作業が行われました。今回は遠方となり、高速道路を利用するためか、二日がかりの作業となり、9日の夜に出発、11日朝に那珂湊駅に到着・搬入されました。これをもって、「三兄弟」はすべて三木の地を去り、三木鉄道の清算にひとつの区切りがつく格好となりました。

三木での見納め、ミキ300-103   

  まもなく、三木駅構内を含めた全区間での線路撤去が完了しました。

 ミキ300-105 → 樽見鉄道ハイモ295-617

  樽見鉄道に移った車両は「ハイモ295-617」となりました。同鉄道には、かつてはミキ180と同タイプの2軸レールバス(ハイモ180形)や客車列車がありましたが、現在ではハイモ230形とハイモ295形が在籍。ミキ300-105は295形に編入される格好となりましたが、同社の気動車では初のセミクロスシートとなり、「観光タイプ」という位置づけになりました。

  本巣機関区で対応工事を施されたのち、2月27日に試乗会、そして3月1日より営業運転に就きました。塗装は三木鉄道時代のままですが、後に広告ラッピングが施された模様。

3月1日、樽見鉄道でデビューしたハイモ295-617 
ハイモ230-313と並ぶ 
記念ヘッドマーク 
樽見鉄道の一員となった証 

  なお、入れ替わりに、予備車となっていたハイモ230-301が除籍されました。同車は1985年製。奇しくも、三木鉄道発足と同年にデビューした車両が、三木鉄道からの車両で置き換えられました。

ハイモ230-301(左)が廃車。ミキ300移籍が世代交代を呼んだ 

 ミキ300-104 → 北条鉄道フラワ2000-3

  三木鉄道最後の列車となった104号。北条鉄道では、既に在籍するフラワ2000形に編入され、「フラワ2000-3」となりました。樽見鉄道と同様、対応工事が施されたものの、塗装はそのまま。

2月時点で、留置されていたフラワ2000-3と1985-1 

  09年3月29日に試乗会が行われたのち、4月5日から営業運転に就くとされていましたが、実際には翌30日には既に運転されていたようです。

社章はフラワ1985からの流用、運賃表示器は三木鉄道からのものとのこと 

三木鉄道時代の姿からほとんど変わらず、北条鉄道線を走るフラワ2000-3 

  なお、予備車的な存在になっていたフラワ1985-1レールバスは、イベント限定で残る予定でしたが、09年1月に故障したため、結果的にフラワ2000-3と入れ替わりに除籍されました。同タイプの車両(キテツ1=旧フラワ1985-2)がいる紀州鉄道に引き取られることになり、3月31日に搬出。「キテツ2」として再デビューします。

方向幕・社章の取り外されたフラワ1985-1 

 ミキ300-103 → ひたちなか海浜鉄道ミキ300-103

  最後に三木を去った103号は、最も遠いひたちなか海浜鉄道に移籍。三木鉄道カラーが存置されただけでなく、こちらは車番も変わらず「ミキ300-103」のまま使用され、「ミキ」の名が茨城の地に生き残ることになりました。09年8月30日に出発式を行い、運行を開始。

  キハ20系の流れをくむ旧式車がまだ数多く残るひたちなか海浜鉄道ですが、ミキ300は他車とは組まず(統括制御に対応させる改造をしていないため)、単独で運用されています。

  2011年3月11日の東日本大震災で、同鉄道は大きな被害を受け、長期運休を余儀なくされています。5月1日には那珂湊駅構内にて、ミキ300を含む7両(在籍する旅客車のうち、取り残された1両を除く全車)を展示するイベントが催されました。以下は、参加したふーた様から提供された写真です。

主力の新型、キハ3710-02との並び 

新旧の在籍車が並ぶ 

連結しての公開。最長7両編成が実現した 

側面には、三木鉄道時代にはなかったサボ受けがついた 

運行開始記念のヘッドマーク 

 

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