1961年に登場し、急行型気動車として全国を席巻したキハ58系気動車。JR発足期の時点で気動車の最大所帯を誇ったものの、新世代の台頭と老朽化の前に勢力を減じつづけ、デビューからちょうど半世紀を経た2011年、一線を退くことになった。

  私が見てきたのは、急行としての衰退からローカルの足としての活躍、そして消滅へと向かう過程だった。自分が撮影した写真やビデオを通して、その流れをたどってみたい。

 国鉄最終年(1986)

 急行「たかやま」 1986年5月4日 大阪駅

  国鉄分割民営化の1年近く前。朝の大阪駅には各地から到着する夜行列車、そしてこれから出てゆく特急や急行がひっきりなしに出入りし、当時小学生だった私には夢のような場所だった。私が撮影したキハ58系の写真のうち、まともな形で残っている最古のものが、これと次の写真。「たかやま」は高山本線の高山、飛騨古川へと向かっていた急行。当時近畿より東の方面には全くなじみがなかったので、未知の領域へと向かう列車として、興味津々で眺めていたものだ。

 

 福知山線ハイキング快速 1986年5月4日 大阪駅

  ゴールデンウイーク期間だったので、臨時列車にも駆り出されていた。福知山線の電化は、この年の11月のこと。大阪のほど近くにあり、特急「まつかぜ」なども走っていたが、宝塚より先は単線非電化、渓谷に沿って細々と進むローカル幹線の風情だった。列車の本数も多くなく、多客時にはこのようにして臨時列車で補っていたのだろう。特急「こうのとり」や「丹波路快速」が頻繁に入る今とは、隔世の感がある。

 

 JR初期〜急行としての活躍(1987-95)

  国鉄時代のキハ58系は、赤とクリーム色のツートン、いわゆる国鉄急行色一辺倒で、良くも悪くも(どちらかといえば悪いほうに)国鉄の体質を象徴するものだった。分割・民営化に際しての目に見える大きな変化は、車両のカラーリングの変化だった。地方それぞれのオリジナルデザインが採用されたが、気動車の最大所帯であったキハ58系は、エリアが広かったぶんだけ、その塗色も実に多彩なものとなった。

  また延命とリニューアルを図るべく、内外装に大きな改造を受けたものも少なくない。まだまだJR世代の新型車両の少なかった時代、これらは鉄道の‘変化’を体現する存在であったとともに、次代へのつなぎとしての役目を果たすことにもなった。

 

 急行「えびの」 1987年 熊本駅

  白を基調とした車両塗装は、(汚れが目立つためか)国鉄時代にはほとんど見られず、広く用いられるようになったのは、国鉄末期以降である。それだけに、斬新さを覚えるものだった。

  「えびの」は、ループやスイッチバックで峠を越す肥薩線を経由して、熊本と宮崎を結ぶ、昔ながらの都市間急行だった。高速道路網の伸長になすすべなく、2000年廃止。汽車時代を彷彿させる旧来の上屋が残っていた熊本駅も、九州新幹線乗り入れに伴い、大きく姿を変えた。

 

 急行「火の山」 1989年 熊本駅

  豊肥本線経由で熊本と大分を結んだ急行。立野のスイッチバックを経て阿蘇のカルデラを通り抜け、文字通り火の山の縁をゆく列車だった。両親の実家がそれぞれ、大分と鹿児島であったことから、その間の移動に何度か乗ったことを覚えているが、かなり長い旅であったという印象が残っている。ボックス席で3時間以上を過ごすのは、いかに列車好きでも幼い身には厳しいものだったのだろう。

  写真に写っているのは、キハ65。高出力の同車を編成中に使用しているのは、険しい山越え路線ならではだ。現在では、キハ185系による特急「九州横断特急」となっているが、所要時間はほとんど変わっていない。

 

 特急「エーデル北近畿」 1991年3月25日 大阪駅

  キハ58系は、その数の多さと汎用性の高さから、特にJR初期においては改造の種車としても活用された。右側「エーデル北近畿」は、改造されたキハ65。先頭部がパノラマとなり、原型をとどめぬほど大きく様子が変わった。同様の列車として「エーデル丹後」「エーデル鳥取」もいた。

  エーデルシリーズ車は、当初の役目を終えたのちも臨時・団体用に活躍したが、2010年までに廃車となった。一方、左側に写っているオレンジ色の103系電車は、2014年現在なお大阪環状線に残存している。

 

 山口線普通 1991年8月18日 小郡(現・新山口)駅

  国鉄カラーのままのキハ58系の普通列車と、キハ181系の特急「おき」。JR発足から4年を経たが、ここを見る限りはまだ「国鉄」の光景だ。山陰本線系は車両の更新が遅れたうえにカラーリングも変わらず、2001年以降の高速化まで長らく旧態依然の姿がみられた。

 

 急行「砂丘」 1994年10月11日 岡山駅

  「砂丘」は、岡山と鳥取を結ぶ、いわゆる陰陽連絡列車のひとつだった。当時存在した「ミニ周遊券」は、周遊エリアまでの往復運賃とさほど変わらない額で、エリアまでの往復と、周遊区間内で急行の自由席を利用することができるという、大盤振る舞いな切符だった。その恩恵に浴して乗りとおしたのがこのとき。物見峠を越える因美線においてはまだタブレット交換がなされており、通過しながらの授受を行なう最後の急行だった。

  半室ながらグリーン車を連結し、都市間急行の貫録を残す一方、高出力のキハ65を挟んではいたが、急峻な物見峠では非力さを露呈していた。同年12月に開通した智頭急行線に役目を譲り、1997年に同線経由の特急「いなば」(現「スーパーいなば」)に置き換えられて廃止となった。

 

 旅の名優(1996-2000)

  95年以降、「青春18きっぷ」や「周遊券」(のちに「周遊きっぷ」)を利用した東向きの旅行が増えていった。「急行」としてのキハ58系は衰退の一途だったが、このころにはまだ、非電化路線の普通や快速を中心に広く活躍を続けており、旅先で最もよく出会う車両のひとつだった。なお、このころからビデオカメラで車窓を撮影しており、それにより‘音声付’で様子を記録できるようになった。

 

 高山本線普通 1996年1月1日 猪谷駅

   「雪見旅」として、車中泊を挟む遠出をした初めての旅。前述の急行「たかやま」が目指した、はるかなる高山本線に、ついに自分自身が足を踏み入れることになった。その北側の区間である、高山から富山までを、キハ58系の普通列車でたどった。当時はJR西日本の車両が、高山にまで乗り入れていた。

  急行車なりの安定した走行、その外を流れるのは、しんしんと雪の降り積もる飛騨の谷。老婦人との会話や、猪谷での小休止など、ローカル線の旅情を十分に感じる行程であった。この経験が、「雪見旅」の方向性を決したといっても過言ではない。※ 下のバナーで、車窓の動画ページへ。

  結局、キハ58系の定期運転が最後まで残ったのが、この高山本線(越中八尾〜富山間)だった。

 

 因美線普通 1996年5月6日 智頭駅

  まだ、急行「砂丘」が走っていた時代の因美線。その間合いでか、この区間の普通列車にもキハ58系が入っていた。地方色全盛の中にあって、旧来の国鉄急行色は、かえって愛着を覚える存在になりつつあった。

  馬力の弱いキハ58系は、登り勾配では じれったいほどのゆっくりした速度で坂に挑み、峠を越えると一転して勢いづく。途中美作河井では、「砂丘」との離合もあり、陰陽連絡線として機能した末期の因美線の姿を見る旅だった。

 

 飯山線普通 1996年12月22日 戸狩野沢温泉駅

  数あまたの地方色の中でも、このカラーリングは良いセンスだと感じられた。信濃川(千曲川)に沿って、屈指の豪雪路線を進む飯山線を走っていたのは、キハ52,58といった、かつてのローカルの主力たちだった。

  キハ52の単行として長岡をスタートして、飯山線に入った列車は、十日町でキハ58系2両を増結。この日は天気が良く、信濃川を車窓の友に、まぶしく輝く白銀の世界を、ゆったりと進む。しかし、連続する雪よけの柵やシェルターを見れば、この地の雪の尋常なさが見て取れる。極めつけは、新潟・長野県境にある森宮野原駅。7.85m、列車の屋根をはるかに超える高さの柱が線路の傍らに立つ。昭和20年、現在のJR路線として最高の積雪を記録した場所だ。

  翌97年、長野新幹線の開業に合わせて軽快気動車キハ110系と交代。このころから、国鉄時代の主力であった1960年代世代の車両に、置き換えの波が迫りつつあった。

 

 只見線普通 1998年12月30日 会津川口駅

  飯山線と並ぶ豪雪ローカル線、只見線。途中会津川口〜只見間はわずか3往復の運転なので、乗りとおしの機会は限られる。そんな只見線にも、キハ58系の姿があった。

  135kmを4時間以上かけて走るスローペースの旅、その中間地点に位置する会津川口。数少ない列車がここですれ違うため、小休止を挟む。ホームに降り立ち、さああと半分と、気分転換を図る。只見線に沿って流れる只見川にはダム湖が点在するが、ここでは線路のすぐ向こうに広がり、雪に煙る谷間の光景をぼんやりと映していた。

 

 急行「ちどり」 1999年9月15日 備後落合駅

  中国山地のさなかにある備後落合駅。ここで接続する芸備線、木次線はかつて、陰陽連絡の一端を担い、この駅も交通の要衝だったという。そんな時代も今は昔、駅は無人化され、各方面への数少ない列車が時折顔を合わせるだけになってしまった。

  そんなかつての名残をとどめていたのが、右の急行「ちどり」。もとは広島と松江を結ぶ陰陽連絡急行で、この時点では備後落合発になっていたが、木次線の普通列車(左)と接続を図り、一応ダイヤ上は昔の形を保っていた。もっとも、その意図通りに乗り換えた利用者の姿はあまり見られなかった。

  2002年、備後落合を発着していた急行「ちどり」「たいしゃく」は三次折り返しの「みよし」に統合され、この駅にキハ58系の列車が来ることはなくなった。

 

 小浜線普通 1999年10月11日 敦賀駅

  若狭湾近くを走る小浜線で活躍していたキハ58系。この少し前まで同線内では急行「わかさ」が運転されており、急行色の「快速」はその名残。ただし、この列車自体は「快速」ではなく普通列車。おそらく方向幕の戻し忘れだろう。

  同線でのキハ58系の働きは、2003年の電化まで続いた。その直後に小浜線を訪ねたが、気動車が速度を落としていた登り勾配を、125系電車は事もなげに駆け上がっていた。一方敦賀駅の留置線には、役目を終えたキハ58系が寄せ集められていた。その大半がそのまま廃車されたことだろう。その中に写真の車両も含まれていたかもしれない。

 

 指宿枕崎線普通 2000年5月4日 枕崎駅

  本土最南端を行く指宿枕崎線。その終点の枕崎駅は、半ば自然に還りつつあるような開放的なホームだった。ここから西鹿児島(現・鹿児島中央)を目指すは、九州色のキハ58系。途中山川から快速となる列車だった。枕崎から開聞岳の間近を通り過ぎ、最南端の西大山駅へ。

  この同じ日に、宮崎の日南線でもキハ58系の列車に乗車しており、南の果ての2路線でこの車両に出会ったことになる。

  なお枕崎駅はその後移転し、このホームも、何もない割に妙に大きかった駅舎も解体された。今では簡素なホームだけの素っ気ない駅になってしまったという。

 トップ > 車両所感 > 特別編 キハ58系(1)