思い出の夜行列車〜急行・快速・普通編

 快速「ふるさとライナー山陰(ムーンライト八重垣)」

  京都〜出雲市間を伯備線経由で結んでいた臨時夜行快速。高校生だった私が「青春18きっぷ」を利用しての初めての旅行に出かけた1991年、初めて利用した夜行列車として記念すべき存在だった。(乗ったのは神戸→松江。)12系客車座席車と14系B寝台車との併結で、岡山までは電気機関車、その先はDD51ディーゼル機関車による牽引。12系座席車のボックス席に二人座り、相席の大学生の人といろいろ話をしたことが印象に残っている。

  1996年以降は「ムーンライト八重垣」として運転。関西〜山陰間には福知山線経由の夜行急行「だいせん」があった(後述)が、そのサポート的な役目を持つ列車でもあった。

  2005年、「ムーンライト山陽」共々運転休止となった。岡山駅構内の工事が表向きの理由だが、事実上の打ち切りだったとみられる。臨時列車の場合、運転するもしないもJRの裁量次第なので、JRが「二度と運転しません」と明言しない限り、明確にいつ廃止になったと述べることはできない。ただし、夜行列車削減の流れと、運行できる車両の減少を考えれば、一度設定のなくなった列車が復活する可能性は、皆無に近いと言わざるを得ない。

 快速「ムーンライト九州(ふるさとライナー九州)」

  関西〜博多(一時期は熊本)を結んだ臨時夜行快速。同じく1991年の旅行で初利用。最初の利用は予定を変更しての乗車だったので指定席がとれず、自由席に乗り込んで何とか席を見つけた。それ以後、「青春18きっぷ」を利用しての九州や山陰方面への旅行に際し、何度もお世話になってきた列車である。

    

  スキー列車「シュプール号」用の客車を使用しており、リクライニングの利く居住性の良い座席だった。ただし冬季は、この車両が「シュプール」に使用されるため、一般客車による「ふるさとライナー九州」として運転された。

  以前は指定席と自由席の混結だったので、早朝に到着する上り列車の自由席に、神戸から京都まで乗車するという、いささか邪道な使い方をしたこともある。のちに全車指定席となり、通年「シュプール」車が使用されるようになった。

  客車列車なので、下関・門司の両駅で機関車の付け替えが行われ、今や珍しいそのシーンを見るために、多くの客が先頭近くに群がる様子が見られた。ただ、客車ゆえの足の遅さがネックで、特に九州内ではラッシュにかかるため、待避を繰り返す苦心のダイヤとなっていた。

  年々運転日を減らしていたため先行きが懸念されていたが、ついに2008年度冬シーズンを最後に設定がなくなった。報道によると、JR側に運行再開の意志はないとされる。なお、2009年春には、東海道・山陽系の最後のブルートレインであった「はやぶさ・富士」が廃止されている。それを機に、東海道〜九州の客車列車の全面撤廃を意図したのだとすれば、ムーンライト九州(および後述の高知・松山)打ち切りも合点のゆくタイミングである。

  写真は、2008年8月、これが最後になるかもと思って撮ったものだが(日の長い夏期でなければ、この時間帯に撮影できない)、残念ながらそうなってしまった。

 急行「だいせん」

  大阪〜出雲市(晩年は米子)間を福知山線・山陰本線経由で結んだ急行。かつては昼行列車も含んだが、1986年11月以降は夜行のみ1往復に。ちなみにその改正まで、夜行の「だいせん」は20系客車で運転されていた。

  以降は14系寝台車と12系座席車の混結での運転。自身の利用は1度目が94年10月。まだ「周遊券」があった時代で、鳥取への往路に利用するのに、実に具合のよい列車だった。

  二度目は99年9月。このときは木次線を利用するため、宍道までの利用だったが、台風による荒天のために途中足止めを食い、3時間遅れで到着する有様だった。(急行料金は払い戻し。)この半月後、「だいせん」は「エーデル」用気動車に置き換えられ、寝台車が廃止された。

 

  晩年の「だいせん」は、直通の夜行利用より両端の終電、始発の意味合いが強くなっていたようで(私が利用したときも、大阪発時点では混み合っていたが、乗り通した客は少なかった)、結局2004年に廃止となった。「周遊券」廃止の影響が大きかった、とも。 

 急行「きたぐに」

  大阪と新潟を結ぶ夜行急行。2010年春改正後、「急行」として残る定期列車は、「はまなす」とこの「きたぐに」のみとなった。1985年より四半世紀以上にわたって、583系電車が使用された。車体デザインは、国鉄時代から数えて2度変更されている。

  座席車・A/B寝台・グリーン車を組み込み、もともと昼夜兼用の特急車両だった同車の特色を生かす編成となっていた。北陸通過は未明・早朝だが、関西〜北陸の利用が意外と多く、また北陸→新潟方面への始発列車としての役目もあり、存在価値を得て生き残ってきた希有な夜行列車である。ちなみに下りの新津〜新潟間では快速列車となり、新潟近郊輸送も兼ねていた。

  18きっぷこそ使えないが、比較的リーズナブルで、かつ時間を有効活用できる便利な列車であった。私も1995年以来、よく利用している。96年にはB寝台に乗った。583系のB寝台は3段式なので高さは厳しいが、ボックス席の幅と同じベッド幅となるため、面積はゆったりしている。

  かつては冬期にはスキー列車「シュプール」が「きたぐに」に並行して北陸線を走っていたが、既に全廃。「きたぐに」は利用実態などからすればすぐに廃止とは考えにくかったが、利用者の減少はこちらも目立っていたようで、2012年春の改正をもって、寝台特急「日本海」ともども廃止。臨時列車としての設定も1年経たずしてなくなり、これをもってJR西日本の583系は全廃された。

 快速「ムーンライトえちご」

  新宿と新潟(かつては村上)を結ぶ夜行快速。毎日運転されていた。初利用は1996年1月で、当時は単に「ムーンライト」と名乗っていた。同年春に後述の「ムーンライトながら」が登場したため、以降は「ムーンライトえちご」となった。

  この列車は私にとって、冬恒例の「雪見旅」に欠かせない存在だった。関西からだと、この列車を使うことによって大きなループを描くことができ、「青春18きっぷ」の効力を最大限に活用できる。早朝から動けるので時間を有効に使える。そして、「目覚めると雪国」というシチュエーションを得られるという点で、旅情も備えていた。利用回数は2010年1月までに、実に10回に及ぶが、そのほとんどは2002年以前に集中している。さすがに近年では、車中泊を含めて普通列車ばかりをひたすら乗り継ぐ、という旅行スタイルが厳しくなってきたからだ。

  「えちご」号には急行形電車165系の専用編成が使用されていた。リクライニングの利くグリーン車用座席がゆったりと配され、居住性に関しては、「ムーンライト」シリーズの中でも最高水準だった。2003年春をもって特急車両(485系、10年春からは183系)に置き換えられたが、その時点で165系を使用する最後の定期列車となっていた。

  置き換え後は1度しか利用していないが、特急車となって静寂性は増した代わりに、座席はむしろ夜行に不向きなものになってしまった。それでもお得な列車であることに変わりはなかったが、2009年3月より「ながら」共々臨時列車化し、18きっぷシーズンを中心とした期間の運転に限定されるようになってしまった。

  そして2014年夏期以降ついに臨時列車としての設定もなくなり、夜行快速の代表格だったこの列車さえも終焉を迎えてしまった。

 快速「ムーンライトながら」

  夜行快速ムーンライトシリーズの中では最も有名な存在だろう。東京〜大垣間を結ぶ、いわゆる「大垣夜行」の流れをくむ列車で、1996年3月にJR東海の特急車両373系に置き換わり、出発時全車指定となったのを機に、「ムーンライトながら」を名乗るようになった。

  東海道を走る列車だけあって人気は絶大で、特に18きっぷのシーズンには指定席を取りにくい列車として知られていた。私自身も鈍行乗り継ぎ旅では幾度かお世話になったが、「えちご」ほどの頻度ではなかった。これは関西〜中京の乗り継ぎのバリエーションが乏しいことや、指定席の取りにくさ、そして「えちご」ほどに居住性がよくなかったことが理由である。373系はデッキの仕切りがないなど、特急車両としては中途半端で、「寝る」には不向きな列車だった。また、9両中後ろ3両の席を取ってしまうと、名古屋で切り離しとなり、その先では立ちんぼを余儀なくされることもあった。

  繁忙期には、並行して臨時列車が運転されていた。本家「ながら」が特急車両化された後もしばらく、急行形の167系などで運転されており、一度は「ながら」を名古屋で降りて岐阜までそちらに乗車したこともある。

  臨時便は、最終的にはJR東日本の特急車で運転されていたが、2009年3月改正をもって「ながら」そのものが臨時列車となった。この時点で「ながら」が183/189系に、2013年夏以降は185系での運転になっている。従って現状、大垣にて東日本の185系と西日本の223系という希な顔合わせを見ることができる。

 富士・はやぶさの廃止が大いにクローズアップされた陰で、こちらもひとつの区切りを迎えた格好だ。「えちご」共々人気ある夜行快速ではあったが、18シーズンを除けば、何としても残さねばならないほどの利用は既になかったのだろう。あるいは、夜行列車そのものに対するJRの消極性が表れたか。

  これまで「臨時格下げ」となった列車のほとんどが、その後衰退・消滅の憂き目に遭っている。「えちご」がなくなった今、「ながら」は18きっぷシーズンに運転される夜行快速として最後の砦となっているが、その運転日数は年々減少傾向にあり、「大垣夜行」以来の伝統の列車ですらもはや安泰とは言い難い。

 紀州夜行

  新大阪発新宮行き。阪和線・紀勢本線に片道だけ運転される夜行列車だった。紀伊半島方面への釣り人を運ぶ「太公望列車」とも呼ばれたそうだが、新大阪発というあたりが物語るように、新幹線からの利用者にも便利な、和歌山方面への最終便という意味合いの強い列車だった。

  利用は1997年10月。165系電車の6両編成で、大阪近郊から和歌山にかけてかなりの立ち客も出る混雑。しかし南下につれて客は減り、ワンボックスを独占。夜を明かした乗客は数えるほどだった。途中、紀伊田辺からは3両となり、夜の紀州路をのんびりと進んでいった。

  運転が続けば紀伊半島の旅行に便利な存在となっていただろうが、やはりこの有様では厳しかったようだ。この2年後には紀伊田辺より先が週末限定の臨時列車となり、いつしかその延長運転も取りやめとなった。ただしその後も引き続き、新大阪から和歌山・紀勢線方面への最終便という役目を担っており、2009年時点で紀伊田辺には1:47という遅い到着だった。しかし2010年改正で御坊止まり(1:12着)となり、夜行時代の名残は薄らいでいる。

 急行「能登」

  上野と金沢を結んだ夜行急行で、ボンネット形先頭車の489系が使用された。途中長岡(運転停車)で向きを変える。長野新幹線開通までは、信越本線(長野)経由だった。

  全く同じ区間を寝台特急「北陸」が走っていた。このような定期夜行列車の「二本立て」は今や他になく、関東〜北陸間の夜行需要はそれなりに大きかったと思われる。ただ、私が乗った(98年10月)ときの状況を見る限り、下り「能登」に関しては関東近郊のホームライナー的な色が強いと見受けられ、夜を明かした客は多くなかった。

  489系は、かつての碓氷峠越えに対応した車両であり、現存する唯一のボンネット型特急用電車となっていた。「はまなす」「きたぐに」とともに、JRに残存する数少ない「急行列車」のひとつだったが、2010年春改正をもって、「北陸」共々廃止。「能登」だけは臨時列車として残ったが、車両は485系になり、定期で走るボンネット車の終焉となった。その臨時列車も、2012年冬期を最後に設定がなくなった。

 急行「ちくま」

  大阪と長野を結んだ夜行急行。かつては14・12系客車による寝台・座席併結だったが、1997年からは特急「しなの」と共通の383系での運転となった。利用したのは99年5月。長野に5時過ぎに着くダイヤだった。

  かつては登山・スキー客で賑わったとのことで、多客時には臨時の「ちくま」や大糸線に入る「くろよん」が並行して運転されていた。しかしこれも需要の変化ゆえか、利用時にはゴールデンウイークにもかかわらず、大した利用率ではなかった。

  2003年に臨時格下げとなった後、いつの間にか設定すらされなくなった。

 快速「ムーンライト高知」

  京都〜高知間に運転された臨時夜行快速。基本的には全車指定席グリーン車(18きっぷでは乗れない)だが、一部シーズンには普通指定席も連結された。ただし、この指定席の座席は・・

  私が乗車したのは2000年1月。神戸を出る時点では「ムーンライト山陽」「高知」「松山」を連ねた堂々10両編成。その後岡山で「山陽」、多度津(運転停車)で「松山」を切り離し、朝に列車を降りる頃にはたった3両になっていた。

  利用した座席は「簡易リクライニング」と呼ばれるもので、背面は薄っぺらく、背中を離すとガチャンと戻ってしまう不便なシート。とてもゆっくり寝られたものではなかった。おかげで翌日の行程は、寝不足からくる頭痛との闘いになってしまった。

  高知号の客車は既にかなりガタがきていたようで、年々運転日を減らしてゆき、ついに「ムーンライト九州」と同様、2008年度の冬期を最後に設定がなくなった。

 快速「ミッドナイト」

  函館〜札幌間に運転されていた夜行快速。キハ58系列のキハ56系で運転されていたが、2000年からは183系特急気動車での運転となった。

  私は実行しなかったが、「ミッドナイト」があった時代には、「ムーンライトえちご」から羽越本線・奥羽本線を経由し、青函トンネルを抜ける快速「海峡」を経て「ミッドナイト」につなぐ乗り継ぎが可能だった。宿泊を挟まず、「青春18きっぷ」で乗れる列車だけで東京から札幌へ行ける、「黄金パターン」であった。

  2001年の正月、私は生涯初めて北海道の地に降り立った。その際、札幌から函館までこの「ミッドナイト」を利用した。この旅行では、北海道到着は飛行機、滞在は正味一日弱で、日中は札幌・小樽あたりを巡っただけだったので、北海道の広さを実感するには至らなかった。むしろ、「ミッドナイト」が一晩走り続けてなお、地図で見る北海道の西側三分の一ほどを移動したに過ぎないという事実に、その広大さを認めることができた。

  しかしこの2001年から、「ミッドナイト」は臨時列車(それまでも「臨時」扱いだったが、実質は毎日運転されていた)となった。そのまま繁忙期限定になるのかと思いきや、翌02年11月末をもってあえなく完全廃止となった。これは快速「海峡」の廃止(特急化)と同時であり、「黄金パターン」は壊滅、「青春18きっぷ」だけを使っての北海道入りは、もはや現実的な選択肢ではなくなった。この両者をスッパリ切ったというのが、JR側のある種の意思表示だったのではないかと思える。

 快速「ムーンライト信州」

  かつて、関東から中央東線経由で信州を目指すアプローチとして、夜行急行「アルプス」や、無名の夜行鈍行があった。登山やスキー客などが多く利用し、新宿駅のホームがあふれかえった時代もあったというが、これもまた2002年までに廃止。その流れをくむ臨時快速が「ムーンライト信州」だ。週末や夏期休暇シーズンを中心に運転されている。登山客が多いという実態からか、下り列車と比べて上りの設定は極端に少ない。ムーンライトシリーズの中では、やや異色の存在である。

  2004年1月に一度だけ利用。もちろん登山のためではなく、鈍行乗り継ぎの一環で、翌朝に中央西線に乗るためだったが、塩尻着が早すぎるので信濃大町まで行き、そこから引き返した。

  写真は、白馬に到着後、回送として折り返す途中。車両は189系。

 私の旅と夜行列車

  私にとって、記憶に残る初めての夜行列車は、親の実家へ行った帰りに利用した寝台特急「明星」だ。しかし、自分で旅行に出るようになってから利用しているのは、多くが快速「ムーンライト」シリーズである。

  「ムーンライト」は、国鉄末期以降、主に高速夜行バスへの対抗上設定された夜行快速で、特急・急行車両に特別料金なしで乗れる、非常に有り難い列車だった。こと、「青春18きっぷ」のシーズンには、それを使えば早朝から深夜まで動けることから、距離を稼げて有効期間を最大限に活用できる存在として、重宝してきた。宿泊費を浮かせることができるのも、特に若いときには魅力だった。

  1991年8月、私にとって初の長旅となった中国・九州方面への旅行では、「ふるさとライナー山陰」と「ムーンライト九州」に乗車。以後何度となく、この種の列車を利用してきた。こと、20代の時期の旅行は、鈍行乗り継ぎでひたすら距離を伸ばすスタイルだったため、いかに夜行快速を上手に使おうかと頭をひねり、連続で車中泊することもあった。(一度だけ、三連続も行っている。)

  また、「ワイド・ミニ周遊券」があった時代(1998年まで)には、行き帰りのルート上では急行が使えるという利点を生かして、夜行急行を使うこともあった。しかしこれが「周遊きっぷ」に切り替わるとメリットが薄くなり、急行そのものが衰退してしまったこともあって、その機会はなくなっていった。

  やがて「距離を稼ぐ」旅行スタイルが体力的に厳しくなり、それに伴って夜行列車を利用する機会も減っていった。時を同じくして、夜行列車自体の衰退が顕著になった。それは「ムーンライト」シリーズも例外ではなく、年を追う毎に運転日が減っていった。利用者の減少や、使われる車両の大半が国鉄時代製のもので老朽化が目立ってきたことが大きな理由だが、JR初期の「どんな形ででもいいから乗って欲しい」という時代とは異なり、ニッチな需要を維持するより収益の大きな所に絞り込みたいという経営側の意向もあってのことだろう。

  00年代後半に入ると、これまでお世話になってきた列車、思い出深かった列車が次々に消えて行くようになった。その中には寝台特急「なは」や快速「ムーンライト九州」などがあり、また「距離稼ぎ」に散々利用した「ムーンライトえちご」「ながら」が臨時列車化されるなど、「定番」さえも衰退してゆく現実を見せつけられてきた。「役目を終えた」と言われればそれまでだが、自分の旅のひとこまを飾ってきた存在であっただけに、寂しさがないといえば嘘になる。

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